全文S43あ2780-2


(一) まず、第一に、右D事件判決は、憲法解釈にあたり看過できない誤りを犯したということである。すなわち、同判決とその基本的立場を共通にする、いわゆるE事件大法廷判決の多数意見(昭和四一年(あ)第四〇一号同四四年四月二日大法廷判決・刑集二三巻五号三〇五頁、以下、単にE事件判決という。) は、公務員の職務は一般的に公共性が強いものであることを認めながら、なお一部の職種や職務には私企業のそれに類似したものが存在するから公務員の争議行為を一律に禁止することは許されないと説くが、その論ずるところは、公務員の争議行為が行なわれる場合、一般に単なる機械的労務に従事する職務の者ばかりでなく、その職務内容が公共性の強い職員の大多数の者の参加によつて行なわれる集団的組織的団体行動であるという現実を無視した議論であり、しかも、職種、職務内容の別なく公務員に対して一律に保障された、生存権擁護の趣旨をもつ代償措置の現存することについての考慮を払うことなく、また、その判断の結果がはたして実際的に妥当するものであるかについて洞察することもなく、ただただ抽象的に理論を推しすすめるものである。すなわち、同判決は、抽象的、観念的思惟に基づいて、公務員による争議行為を制限禁止した関係公務員法の当該規定は違憲の疑いがあると安易に断定しているのであつて、D事件判決もその論法において軌を一にしているのである。そのような憲法判断の手法は、労働基本権に絶対的な優位を認めようとするに傾きやすく、現実の社会的、経済的基盤の上に立つて国家と国民および国民相互の相反する憲法上の諸利益を調整すべきものであるという憲法解釈の要諦を忘れたものといわなければならない。なお、五裁判官の意見は「一律全面的」な争議行為の禁止は不当であるとして多数意見を論難するのであるが、職種と職務内容の公共性の程度が弱く、その争議行為が国民全体の共同利益にさほどの障害を与えないものについては、労働政策の問題として立法上慎重に考慮されるべきものであることについては、多数意見が指摘しているところである。ちなみに、西ドイツにおいては、公勤務従事者のうち、官吏についてはストライキを禁止されているが、その代り終身任用制度および一種の昇進制度が勤務条件法定主義のもとに行なわれているのに対し、雇員、単純労務職員については、特定の職務内容を限定してストライキを認めており、また、カナダ連邦、アメリカのペンシルバニヤ州やハワイ州では重要でない職務に従事する公務員についてストライキを認めているが、職務の重要性の判定は第三者機関が行なうたてまえとなつているのであつて、D事件判決が示す「国民生活に重大な支障」を及ぼすことの有無というような漠然とした基準によつて公務員の争議行為の正当性を画する立法例は他国には見あたらないのである。なお、カナダ連邦の場合は、仲裁手続とストライキとの選択のもとに、かりにストライキを選択したときでも厳格な調停手続を経ることが条件となつているのであり、この手続を経ないストライキは禁止されているのである。そして、アメリカでストライキの認められている前示二州でも、ほぼこれに似た制度をとつているのであるが、その国情による相違があるとはいえ、重要でない職務の公務員のストライキを認めるについて、無制限にこれを認めることなく、厳格な制約のもとに置かれていることに特に留意すべきである。
 第二に、D事件判決の示した限定解釈には重大な疑義があるということである。すなわち、同判決と基本的に共通の見解に立つている前記E事件判決がいうところは、公務員の職務の公共性には強弱があるから、その労働基本権についても、その職務の公共性に対応する制約を当然内包しているという理論的立場を強調しながら、限定解釈をするにあたつては、一転して職務の公共性をなんら問題とすることなく、「ひとしく争議行為といつても、種々の態様のものがある」として、争議行為の態様の問題へと転移し、争議行為における違法性の強弱という暖味な基準を設定したのである(五裁判官の意見は、多数意見が公務員の争議行為につきその「主体」のいかんを問わず全面的禁止を是認することを非難しているのであるから、当然「主体」による区別をいかに考えるべきかについての明確な基準を示して然るべきものなのである。しかるに、その明示がなされていないことは、現在の公務員制度のもとにおける職員組合の組織と争議行為の現況にかんがみ、そのような区別をたてることは抽象論としてはともかく、実際上はほとんど不可能であることを物語るものであろうか。)。ことに、同判決は、争議行為に関する罰則については、争議行為そのものの違法性が強いことと、あおり等の行為の違法性が強いことを要するばかりでなく、争議行為に「通常随伴して行なわれる行為は処罰の対象とはならないと解すべきものであるとしている。ところで、いわゆるA事件判決の多数意見(昭和三九年(あ)第二九六号同四一年一〇月二六日大法廷判決・刑集二〇巻八号九〇一頁、以下、単にA事件判決という。)では、争議行為の正当性を画する基準として、「政治的目的のために行なわれたような場合」、「暴力を伴う場合」、「社会の通念に照らして不当に長期に及ぶときのように国民生活に重大な障害をもたらす場合」をあげ、これらの場合でなければ、その争議行為は、憲法上保障された正当な争議行為にあたると説示されているが、D事件判決では、争議行為の違法性が強い場合
の基準として、そのまま右と同様のものが転用されているのである。すなわち、あおり行為等を処罰するための要件として、「争議行為そのものが、職員団体の本来の目的を逸脱してなされるとか、暴力その他これに類する不当な圧力を伴うとか、
社会通念に反して不当に長期に及ぶなど国民生活に重大な支障を及ぼすとか」ということをあげている。争議行為が正当であるか否かは、違法性の有無に関する問題であり、違法性が強いか弱いかは違法性のあること、すなわち正当性のないことを前提としたものである。そして、ここにいう正当性の有無は、単に「刑法の次元」における判断ではなく、まさに憲法二八条の保障を受けるかどうかの憲法の次元における問題なのであるから、その保障を受けうるものであるかぎり、民事上、刑事上一切の制裁の対象となることはないのである。しかるに、D事件判決は、A事件判決が憲法上の保障を受けるかどうかの観点から違憲判断を回避するために示した
正当性を画する基準と同一のものを、違法性の強弱判定の基準としているのであつ
て、そこに法的思惟の混迷があると思われるのであるが、それはともかくとして、このような基準の設定は、刑罰法規の構成要件としてもすこぶる不明確であり、そのゆえに、むしろ違憲の疑いを生むのであり、さらに右のような基準の確立が判例の集積になじまないものであることについては、岸裁判官、天野裁判官の追加補足
意見の指摘するところである。この点について、五裁判官の意見は、公務員の争議
行為をあおる等の行為がD事件判決の判示する基準に照らして処罰の対象となるかどうかは事案ごとに具体的事実関係により判断されなければならないとして、これらの行為が国公法上罰則の対象となりうることを肯定しながら、公務員法違反の場
合と公共企業体職員または私企業労働者の争議行為の場合とを対比し、一つは構成
要件充足の問題であり、他は違法性阻却の問題であるといい、さらに転じて「刑法の次元における違法性阻却の理論によつて処理することは相当でなく、」 と至極当然のことにわざわざ言及し、あたかも多数意見がその誤りを犯しているかのごとき論難を加えているが、そのいわんとする真意が那辺にあるか理解に苦しむところである。
 第三に、D事件判決に見られる憲法解釈の疑点もさることながら、それが惹起している労働・行政または裁判実務上の混乱も、また無視できないということである。すなわち、例えば、E事件判決は、「違法な争議行為を想定して、あおり行為等をした場合には、かりに予定の違法な争議行為が実行されなかつたからといつて、あおり行為等の刑責は免れない。」旨判示する。しかし国公法一一〇条一項一七号の罰則は、あおり行為等に対して結果責任を問うものではないのであるから、行為者
が、かりに違法性の弱い争議行為を想定して、あおり行為等をしたが、予期に反し、争議行為が「社会通念に反して不当に長期に及び国民生活に重大な支障」を与えた場合には、D事件判決の見解に従うかぎり、なんらこれに対し刑事責任を問うことができないこととなるであろう。また、争議行為の実態に即して考えて見ても、争議行為は、通常、争議指導者の指令のままに動くものであるから、あおり等の行為自体の違法性が強い場合などはおよそありえないであろう。このことは、同判決の
右のような解釈のもとでは、国公法の右規定が現実的には、ほとんど有効に機能しないことを示すものであつて、結局公務員の争議行為が野放しのままに放置される結果ともなりかねないのである。さらにまた、同判決が判示する前記の基準も、それ自体が客観性を欠き、これを捕捉するに極めて困難であり、五裁判官の意見のい
うように、右の判決が一般国民の間に定着しているものとはとうてい考えられない。右の基準が暖昧で判断者の主観による恣意がはいりこむ虞れがあるという批判は、本件の弁論において弁護人からも強く指摘されたばかりでなく、すでに、いわゆるA事件判決を支持する論者、これに反対の立場にある論者の双方から強い批判を受
けているところである。D事件判決も公務員の争議行為に対するあおり等の行為が
罰則の適用を受ける場合のあることを肯定する以上は、その明確な基準を示すべき
であつたのである。
 さらに第四に、D事件判決ならびにこれと同一の基盤をもつE事件判決がA事件判決と相まつて公務員の争議行為に関する罰則の適用について一般に誤つた評価を
植えつけるにいたつたということである。すなわち、E事件判決は、A事件判決が勤労者の労働基本権に対する、いわゆる内在的制約を考慮する際「一般的にいつて、
刑事制裁をもつてこれに臨むべき筋合ではない。」(同判決の、いわゆる四条件中、
(3)最高裁刑集二〇巻八号九〇七頁参照。)と判示したことをそのまま踏襲しているのであるが、さらにE事件判決の趣旨を受けついだD事件判決は、国公法一一〇条一項一七号についてこれを限定的に解釈しないかぎり憲法一八条、二八条に違反する疑いがあるといつて、一般に対し「公務員労働者の」「争議行為を刑事罰から解放」したものであるかのごとき誤つた理解を植えつけることとなつたのである。
これは、ひつきよう、同判決の不明確な限定解釈と誤つた法解釈の態度とにその原因をもつものといわねばならないのである。(現に五裁判官の意見も公務員の争議行為に対するあおり等の行為が罰則の適用を受ける場合のあることを肯定していながら、しかも、なおかつ、あたかも多数意見のみが、公務員の争議行為に関し仮借のない刑事制裁を是認しているもののような論難をしているのである。) なお、付言するに、ILO第一〇五号条約(わが国は批准していない。) に関する第五二回ILO総会に提出された条約勧告適用専門家委員会の報告書は、「一定の事情の下においては違法な同盟罷業に参加したことに対して刑罰を科することができるということ、」「この刑罰には通常の刑務所労働が含まれることがあるということ」その他について合意が成立した旨の、同条約を審議した総会委員会の報告書を引用
して「同盟罷業に関する各種の国内立法を評価するに当たり、本委員会は、総会の
意図に関する前述したところを十分に考慮することが適当であると考える。」と述べているのである(九四項。なお九五項参照。)。
 (二) つぎに、D事件判決には、真の意味の多数意見なるものがはたして存在
するといえるであろうか。同判決において多数と見られる八名の裁判官の意見が一致しているのは、ただ国公法の規定を「限定的に解釈するかぎり」違憲でないと判
示する点にかぎられているのである。そして、そのいわゆる限定解釈の内容について見るに、右八名の裁判官のうち、六名の裁判官は、違法性強弱論およびあおり行
為等の通常随伴性論の立場をとつているが、他の二名の裁判官は、違法性強弱論に
は否定的な意見を示しており、しかも、その二名の裁判官の間でも、「通常随伴性」
についての考え方が一致していないのである。このように、限定解釈をすべきであるという点では同意見であつても、それだけでは全く内容のないものであり、そのいうところの限定解釈についての内容が区々にわかれていて、過半数の意見の裁判
官による一致した意見は存在しないのである。前記のように、行政上および裁判上の混乱を招いたのも、ひつきょう、同判決ならびにその基盤を共通にするA事件判決およびE事件判決のもつ内容の流動性、暖昧性に基因するところが大きく、判例としての指導性にも欠けるところがあつたといわねばならないのである。そして、現在においては、本判決の多数意見は、前記判示のとおり、憲法および国公法の解
釈につき一致した見解を示しているものであるのに対し、多数意見に同調する裁判官以外の裁判官の意見は、単に形式上少数であるばかりでなく、内容的にも国公法の解釈について意見が分立しており、ことに五裁判官の意見が本件につき上告棄却
の意見であるならば、D事件判決にいう、いわゆる通常随伴性論を今日維持することは背理というほかなく、また通常随伴性論をとるとすれば、結論は、むしろ反対
となるべき筋合いであろう。この一点をみても、右五裁判官ら自身、意識すると、
しないとにかかわらず、前記の判例の見解を変更しているものにほかならない。し
たがつて、D事件判決は、今日、もはやいかなる意味においても「判例」として機能しえないものであり、これが変更されるべきことは、自然の成行きといわなければならないのである。五裁判官の意見は、「僅少差の多数によつてさきの憲法解釈を変更することは、最高裁判所の憲法判断の安定に疑念を抱かせ、ひいてはその権
威と指導性を低からしめる虞れがある云々」と述べているが、多数意見に対するい
われのない批判にすぎず、強く反論せざるをえない次第である。裁判官岸盛一、同天野武一の追加補足意見は、つぎのとおりである。
 (一) まず、多数意見は、憲法二八条の勤労者のうちには、公務員(非現業の国家公務員をいう。以下同じ。)も含まれるとの見解にたちながらも、公務員の地
位の特殊性とその職務の公共性とを考慮にいれるとき、公務員の勤労関係を規律する現行法制のもとでは、公務員の勤務条件が法定されており、その身分が保障され
ているほか、適切な代償措置が講じられている以上は、国家公務員法(昭和四〇年法律第六九号による改正前のもの。以下国公法という。) 九八条五項の規定は、いまだ、憲法二八条に違反するものと断ずることはできないとするものである。
 ところで、一般的に勤労者の争議行為を禁止するについて、その代償措置が設けられることが極めて重要な意義をもつものであることは、いわゆるドライヤー報告やI・L・O結社の自由委員会でもたびたび強調されているところであり、その事例を枚挙するにいとまなしといつても過言ではないのであるが、公務員に関してもその争議行為を禁止するについては、適切な代償措置が必要であることが指摘され
ているのである(結社の自由委員会第七六次報告第二九四号事件二八四項、第七八次報告第三六四号事件七九項等)。ところが、わが国で、公務員の争議行為の禁止について論議されるとき、代償措置の存在がとかく軽視されがちであると思われる
のであるが、この代償措置こそは、争議行為を禁止されている公務員の利益を国家
的に保障しようとする現実的な制度であり、公務員の争議行為の禁止が違憲とされ
ないための強力な支柱なのであるから、それが十分にその保障機能を発揮しうるも
のでなければならず、また、そのような運用がはかられなければならないのである。
したがつて、当局側においては、この制度が存在するからといつて、安易に公務員の争議行為の禁止という制約に安住すべきでないことは、いうまでもなく、もし仮りにその代償措置が迅速公平にその本来の機能をはたさず実際上画餅にひとしいと
みられる事態が生じた場合には、公務員がこの制度の正常な運用を要求して相当と
認められる範囲を逸脱しない手段態様で争議行為にでたとしても、それは、憲法上保障された争議行為であるというべきであるから、そのような争議行為をしたこと
だけの理由からは、いかなる制裁、不利益をうける筋合いのものではなく、また、そのような争議行為をあおる等の行為をしたからといつて、その行為者に国公法一一〇条一項一七号を適用してこれを処罰することは、憲法二八条に違反するものといわなければならない。
 もつとも、この代償措置についても、すべての国家的制度と同様、その機能が十分に発揮されるか否かは、その運用に関与するすべての当事者の真摯な努力にかかつているのであるから、当局側が誠実に法律上および事実上可能なかぎりのことをつくしたと認められるときは、要求されたところのものをそのままうけ容れなかつたとしても、この制度が本来の機能をはたしていないと速断すべきでないことはいうまでもない。
 以上のことは、多数意見においてとくに言及されていないが、その立場からは当然の理論的帰結であると考える。
 (二)つぎに、多数意見は、国公法一一〇条一項一七号について、福岡高等裁判所判決(昭和四一年(う)第七二八号同四三年四月一八日判決)が示した限定解釈
は犯罪構成要件の明確性を害するもので憲法三一条違反の疑いがあるというが、わ
れわれは、右の限定解釈は明らかに憲法三一条に違反するばかりでなく、本来許さ
るべき限定解釈の限度を超えるものであるとすら考えるものである。すなわち、同
判決は、国公法の右規定を限定的に解釈して、争議行為が政治目的のために行なわ
れるとか、暴力を伴うとか、または、国民生活に重大な障害をもたらす具体的危険が明白であるなど違法性の強い争議行為を違法性の強い行為によつてあおるなどし
た場合に限り刑罰の対象となるというのであつて、いわゆるD事件についての当裁
判所大法廷判決の多数意見がさきに示した見解とほぼ同趣旨の見解を示しているのである。
 ところで、憲法判断にさいして用いられる、いわゆる限定解釈は、憲法上の権利に対する法の規制が広汎にすぎて違憲の疑いがある場合に、もし、それが立法目的
に反することなくして可能ならば、法の規定に限定を加えて解釈することによつて、
当該法規の合憲性を認めるための手法として用いられるものである。そして、その解釈により法文の一部に変更が加えられることとなつても、法の合理的解釈の範囲
にとどまる限りは許されるのであるが、法文をすつかり書き改めてしまうような結
果となることは、立法権を侵害するものであつて許さるべきではないのである。さ
らにまた、その解釈の結果、犯罪構成要件が暖味なものとなるときは、いかなる行
為が犯罪とされ、それにいかなる刑罰が科せられるものであるかを予め国民に告知
することによつて、国民の行為の準則を明らかにするとともに、国家権力の専断的な刑罰権の行使から国民の人権を擁護することを趣意とする、かのマグナカルタに
由来する罪刑法定主義にもとるものであり、ただに憲法三一条に違反するばかりで
なく、国家権力を法の支配下におくとともに国民の遵法心に期待して法の支配する
社会を実現しようとする民主国家の理念にも反することとなるのである。このことは、大陸法的な犯罪構成要件の理論をもたない英米においても、つとに普通法上の
厳格解釈の原理によつて、裁判所は、個々の事件について、法文の不明確を理由に
法令の適用を拒否する手段を用いて、実質上法令の無効を宣言するのとひとしい実
をあげてきたといわれているのであるが、とくに米国では、一世紀も前から法文の不明確を理由としてこれを無効とする理論が芽ばえ、一九〇〇年代にはいつてから
は、国民の行為の準則に関する法令は、予め国民に公正に告知されることが必要で、そのためには 法文は明確に規定されなければならないとして、憲法修正五条、六条、一四条等の適正条項違反を理由に不明確な法文の無効を宣言する、いわゆる明
確性の理論が判例法として確立され今日に及んでいるのである。
 この法文の明確性は、憲法上の権利の行使に対する規制や刑罰法規のような国民
の基本的権利・自由に関する法規については、とくに強く要請されなければならないことは当然である。
 ところで、前記福岡高等裁判所判決は、あおり行為の対象となる争議行為の違法
性の強弱を判定する基準の一つとして、「国民生活に対する重大障害」ということ
をあげている。同様にD事件判決の多数意見は、「社会の通念に反して不当に長期
に及ぶなど国民生活に重大な支障」といつている。しかし、国民生活に重大な障害とか支障とかいう基準はすこぶる漠然とした抽象的なものであつて、はたしてどの
程度の障害、支障が重大とされるのか、これを判定する者の主観的な、時としては
恣意的な判断に委ねられるものであつて、そのような弾力性に富む伸縮自在な基準
は、刑罰法規の構成要件の輪郭内容を極めて暖味ならしめるものといわざるをえな
い。また、D事件判決の多数意見のように「社会の通念に反し不当に長期に及ぶな
ど」という例示が示されているとしても、どの程度の時間的継続が不当とされるの
か、これまた甚だ不明確な要件といわざるをえないばかりでなく、そのうえ「社会
の通念に照らし」という一般条項を構成要件のなかにとりこんでいることは、却てその不明確性を増すばかりである。したがつて、かような基準を示された国民は、
自己の行為が限界線を越えるものでないとして許されるかどうかを予測することが
できず、法律専門家である弁護士、検察官、裁判官ですら客観的な判定基準を発見
することに当惑し(いわゆるA事件の差戻し後の東京高裁昭和四一年(う)第二六
〇五号同四二年九月六日判決・刑集二〇巻五二六頁参照)、罰則適用の限界を画す
ることができないばかりでなく、民事上、行政上の制裁との限界もまた不明確であ
つて、法の安定性・確実性が著しくそこなわれることとなる。現に全国の事実審裁
判所の判決においても、「国民生活に重大な障害」に関する判断が区々にわかれて統一性を欠いているのが今日の実情なのである。さらにまた、右のような限定解釈は、罰則の適用される場合を制限したかのようにみえるのであるが、それに示されているような抽象的基準では、前記判決が志向したところとはおよそ逆の方向にも作用することがないとも限らない。けだし、法文の不明確は法の恣意的解釈への道
をひらく危険があるからである。
 もつとも、右の基準の明確な確立は、今後の判例の集積にまてばよいとの反論も
あろう。最近の、カナダの連邦公務員関係法、アメリカのペンシルバニヤ州の公務
員労使関係法およびハワイ州公法は、重要職務に従事する公務員についてのみ争議
行為を禁止しているのであるが、それらの立法に対する、職務の重要性・非重要性
を区別することは困難であるとの批判に対して、裁判所の判例の集積による解決が
最も妥当であるとの反論もみられる。しかし、右の諸立法においては、別に第三者
機関による重要職務の指定判定の制度があつて、それによつて重要公務の範囲が一
応は形式的に明確にされる建前なのであるから、その指定判定に争いがあるとき裁
判所の判断をまつということのようである。すなわち、それは、重要職務に従事す
る公務員の範囲を主体の面から限定するものであつて、行為の態様による限定では
ないのである。「国民生活に重大な障害」の有無というような行為の態様の基準の明確な確立は、むしろ、判例の集積による方法にはなじまないというべきであろう。
 およそ国民の行為の準則は、裁判時においてではなく、行為の時点においてすでに明確にされていなければならない。また、終局判決をまたなければ明確にならな
いような基準は、基準なきにひとしく、国民を長く不安定な状態におくこととなる。
国民は各自それぞれの判断にしたがつて行動するほかなく、かくては法秩序の混乱
はとうてい免れないであろう。
 憲法問題を含む法令の解釈にさいしては、いたずらに既成の法概念・法技術にと
らわれて、とざされた視野のなかでの形式的な憲法理解におちいつてはならないこ
とはいうまでもないことであり、また、絶えず進展する社会の流動性と複雑化とに
対処しうるためには、犯罪構成要件がつねに客観的・記述的な概念にとどまること
はできず、価値的要素を含んだ規範的なものへと深化されることも必要である。さらに、正義衡平、信義誠実、公序良俗、社会通念等々の、もともとは私法の領域で
発達した一般条項の概念が、法解釈の補充的原理として具体的事件に妥当する法の
発見に寄与するところがあることも否定できない。しかしながら、あまりにも抽象
的・概括的な構成要件の設定は、法の行為規範、裁判規範としての機能を失なわし
めるものであり、いわんや、安易簡便な一般条項を犯罪構成要件のなかにとりこむ
ことは極力これを避けなければならない。第二次大戦前のドイツ法学界において、
一般条項がいともたやすく遊戯のように労働法を征服したとか、一般条項は個々の
犯罪構成要件をのりこえてしまう傾向をもつとかと、強く指摘した警告的な主張が
なされたことが思いあわされるのである。
 法の規定が、その文面からは一義的にしか解釈することができず、しかも憲法上許される必要最小限度を超えた規制がなされていると判断せざるをえないならば、たとえ立法目的が合憲であるとしても、その法は違憲とされなければならない。し
かるに、国公法一一〇条一項一七号についての前記のような限定解釈は、それを避
  • 32 -けようとして詳密な理論を展開したのであるが、惜しむらくは、その理論の実際的
適用について前述のような重大な疑義を包蔵するうえに、その限定解釈の結果もた
らされた同条の構成要件の不明確性は、憲法三一条に違反するものであり、また、
立法目的に反して法の規定をほとんど空洞化するにいたらしめたことは、法文をすつかり書き改めたも同然で、限定解釈の限度を逸脱するものといわざるをえないの
である。
 裁判官岩田誠の意見は、次のとおりである。
 国家公務員法(昭和四〇年法律第六九号による改正前のもの。以下、国公法とい
う。)一一〇条一項一七号の規定の合憲性に関する私の意見は、当裁判所昭和四一
年(あ)第一一二九号同四四年四月二日大法廷判決(刑集二三巻五号六八五頁)に
おける私の意見のとおりである。
 したがつて、公務員の行なう争議行為の違法性の強弱、あおり行為等の違法性の
強弱により国公法一一〇条一項一七号の適用の有無を決すべきでないことは、前記
大法廷判決における私の意見のとおりであるけれども、同法条の規定は、これにな
んら限定解釈を加えなくても、憲法二八条に違反しないとする意見には賛同するこ
とができない。
 これを本件について見るに、原判決が罪となるべき事実として確定したところによれば、被告人らは、それぞれ原判示のような農林省の職員をもつて組織するB労働組合(以下、B労組という。)の役員であるところ、昭和三三年一〇月八日内閣が警察官職務執行法の一部を改正する法律案 (以下、警職法改正案という。)を
衆議院に提出するやこれに反対する第四次統一行動の一環として、原判示第一、第
二の所為に及んだというのであつて、被告人らの右所為は、B労組の団体行動とし
てなされたものとしても、右は警職法改正に対する反対闘争という政治目的に出た
ものであつて、B労組組合員の給与その他の勤務条件の改善、向上を図るためのものではないから、憲法二八条の保障する労働基本権の行使ということはできないも
のである。したがつて、被告人らの所為は、争議行為にいわゆる通常随伴するもの
であるか否かにかかわらず、それぞれ国公法一一〇条一項一七号にいう争議行為を
あおることを企て、または、争議行為をあおつたものとして同条項違反の罪責を免
れないものといわなければならない。
 所論は、また、被告人らの所為を国公法一一〇条一項一七号により処罰した原判
決および国公法の右規定は、憲法二一条に違反すると主張する。しかし、警職法改
正法案に反対する意見を表明すること自体は、何人にも許され憲法二一条の保障す
るところであるが、その意見を表明するには、争議行為に訴えなくても、他にいくらでも適法な表明手段が存するのであつて、憲法二八条の保障の範囲を逸脱した本
件のような争議行為によることを要するものではない。したがつて、前示のように
憲法二八条の保障の範囲を逸脱した争議行為のあおり行為等を処罰する旨を定めた
国公法一一〇条一項一七号の規定は、憲法二一条に違反するものではなく、被告人
らの前記所為を処罰した原判決もまた憲法二一条に違反するものではない。
 そうすると、被告人らの前示所為は国公法一一〇条一項一七号にあたるとして有
罪の言渡をした原判決は結局正当であつて、被告人らの本件上告はいずれもこれを
棄却すべきものである。
 裁判官田中二郎、同大隅健一郎、同関根小郷、同小川信雄、同坂本吉勝の意見は、次のとおりである。
 本件上告を棄却すべきものとする点においては多数意見と同じであるが、その理由は次のとおりであるほか、岩田裁判官の意見と同じであり、多数意見の説く理由
には賛成することができない。
第一 多数意見は、国家公務員法(昭和四〇年法律第六九号による改正前のもの。
以下、国公法という。)九八条五項および一一〇条一項一七号の各規定が憲法二八条に違反する旨の上告論旨を排斥するにあたり、右国公法の規定は、解釈上これに
特別の限定を加えなくても憲法の右規定に反するものではないとし、この点につき
さきに憲法違反の疑いを避けるために限定解釈を施すべきものとしたいわゆるD事
件の当裁判所判決(昭和四一年(あ)第一一二九号同四四年四月二日大法廷判決・
刑集二三巻五号六八五頁)と相反する見解を示している。この多数意見の説くとこ
ろは、基本的には右判決における少数意見を若干ふえんし、かつ、詳述したにとど
まるものと考えられるが、これを要約すると、
 (1) 公務員は全体の奉仕者であり、その職務内容は公共性をもつているから、
公務員の争議行為は、その地位の特殊性と職務の公共性に反し、かつ、その結果多
かれ少なかれ公務の停廃をもたらし、国民全体の利益に重大な影響を及ぼすか、ま
たはその虞れがある。
 (2) 公務員の勤労条件の決定は、私企業の場合と異なり、労使間の自由な取
引に基づく合意によつてではなく、国会の制定する法律と予算によつて定められる
という特殊性をもつているが、公務員が争議行為の圧力によつてこれに影響を及ぼ
すことは、右の決定についての正常かつ民主的な過程をゆがめる虞れがある。
 (3) 公務員の争議行為の禁止については、これに対応する有効な代償措置制
度が設けられている。
というに尽きる。しかし、右の理由は、いずれも公務員の争議行為を一律全面的に
禁止し、これをあおる等のすべての行為に対して刑事制裁を科することの合憲性を
肯定するに十分な理由とすることはできない。すなわち、
一、憲法一五条二項の、公務員が国民全体の奉仕者である旨の規定は、主として、
公務員が特定の政党、階級など国民の一部の利益に奉仕すべきものではないとする
点に意義を有するものであつて、使用者である国民全体、ないしは国民全体を代表
しまたはそのために行動する政府諸機関に対する絶対的服従義務を公務員に課した
  • 35 -ものという解釈をすることはできない。このような解釈は、国民全体と公務員との
関係をあたかも封建制のもとにおける君主と家臣とのそれのような全人格的な服従
と保護の関係と同視するに近い考え方であつて、公務員と国との関係を対等な権利
主体間の法律的関係として把握しようという憲法の基本原理と相容れないものであ
る。のみならず、公務員の地位の特殊性を強調する右の考え方は、勤労条件の決定
に関する公務員の労働基本権、とくにその争議権に対する制約原理としてよりも、
むしろ、その否定原理としてはたらく性質のものであつて、公務員についても基本
的には憲法二八条の労働基本権が認められるとする多数意見自体の説くところと矛
盾する契機をすらもつものである。すなわち、このような考え方のもとでは、たと
えば、公務員の争議行為のごときは、一種の忠誠義務違反として、それ自体を不当
視する観念を生じがちであり、この観念を公務員一般におし及ぼすことは、原則と
して、すべての国民に基本的人権を認めようとする憲法の基本原理と相容れず、とくに憲法二八条の趣旨とは正面から衝突する可能性を有するものである。それゆえ、公務員の争議権を制限する根拠を国民全体の奉仕者たる地位の特殊性に求めるべきではないというべきである。
 次に、公務員の職務内容が原則として公共の利益に奉仕するものであり、公務員の職務懈怠が公務の円滑な運営に支障をもたらし公共の利益を害する可能性を有す
ることは、多数意見のいうとおりであり、これが公務員の争議行為を制限する実質
的理由とされていることは、なにびとも争わないところである。しかし、このこと
から直ちに、およそ公務員の争議行為一切を一律に禁止し、これをあおる等のすべ
ての行為に刑事制裁を科することが正当化されるとの結論を導くことには、明らか
に論理の飛躍がある。すなわち、公務の円滑な運営の阻害による公益侵害をもつて
争議権制限の実質的理由とするかぎり、このような侵害の内容と程度は争議行為制
限の態様、程度と相関関係にたつべきものであつて、たとえば、形式的には一時的
  • 36 -な公務の停廃はあつても、実質的には公務の運営を阻害する虞れがあるといいえな
い争議行為までも一律に禁止し、これをあおる等の行為に対して刑事制裁を科する
ことが正当とされるいわれはないといわなければならない。国の事務が国の存続自
体を支える固有の統治活動、すなわち、軍事、治安、財政などにかぎられていた時
代においては、これに従事する者も限定されていた反面、それらの者による公務の
懈怠が直ちに国家社会の安全に響く虞れがあり、したがつて、そのような理由から
これらの者の争議行為を全面的に禁止することにも合理性があることを否定できなかつたとしても、近代における福祉国家の発展に伴い、国や地方公共団体の行なう
事務が著しく拡大し、その大部分が一般福祉行政や公共的性質を有する経済活動と
なり、これに従事する者も飛躍的に増加して、全公務員の相当部分を占め、しかも、
これらの公務員が全勤労者の中でも相当大きな割合を形成するに至つた今日におい
ては、公務の内容、性質もきわめて多岐多様であるとともに、その運営の阻害が公
共の利益に及ぼす影響もまた千差万別であつて、そのうちには、公益的性質を有す
る私企業の業務の停廃による影響とその内容、性質においてほとんど区別がなく、
むしろ、後者の方がその程度いかんによつては、国民生活に対してより重大な支障
をもたらす虞れのある場合すら存するのである。したがつて、これらをすべて公益
侵害なる抽象的、観念的基準によつて一律に割り切り、公務員の争議行為を、その
主体、内容、態様または程度などのいかんにかかわらず全面的に禁止し、これをあおる等のすべての行為に刑事制裁を科するようなことは、とうてい、合理性をもつ
立法として憲法上これを正当化することはできないといわなければならない。
二、公務員に対する給与は、国または地方公共団体の財源使用の一内容であるから、
公務員の勤労条件のいかんは、国などの財政、ことに予算の編成と密接な関連を有
し、したがつて、その決定につき、国会または地方公共団体の議会の監視または承認を経由する必要があることは、多数意見の説くとおりである。しかし、このこと
  • 37 -から、右の勤労条件の基準がすべて立法によつて決定されることを要し、その間に
労使間の団体交渉に基づく協定による決定なるものをいれる余地がないとする結論
は、当然には導かれないし、憲法上それが予定されていると解すべき根拠もない。
憲法七三条四号は、内閣が法律の定める基準に従い官吏に関する事務を掌理すべき
旨を規定しているが、それは、国家公務員に関する事務が内閣の所管に属すること
と、内閣がこの事務を処理する場合の基準の設定が立法事項であつて政令事項では
ないことを明らかにしたにとどまり、公務員の給与など勤労条件に関する基準 が
逐一法律によつて決定されるべきことを憲法上の要件として定めたものではなく、
法律で大綱的基準を定め、その実施面における具体化につき一定の制限のもとに内
閣に広い裁量権を与え、かつ、公務員の代表者との団体交渉によつてこれを決定す
る制度を設けることも憲法上は不可能ではない。したがつて、公務員の勤労条件が、
その性質上団体交渉による決定になじまず、団体交渉の裏づけとしての団体行動を
正当とする余地がないとすることはできないのである。もつとも、公務員の勤労条
件の抽象的基準をすべて法律によつて定めることは、憲法上可能であり、わが国に
おいては現にこのような立法政策がとられ、国家公務員法や公務員給与関係諸法律
などによつて、公務員の勤労条件の基準に関し詳細な規定が設けられ、しかも、公
務員団体に対し団体交渉権が認められているとはいえ、団体協約締結権は否定され、
団体交渉により勤労条件が決定される余地や範囲はきわめて狭く、したがつて、公
務員の争議権は、団体交渉権の裏づけとしての意味に乏しく、この点において私企
業労働者の場合に比し大きな相違が存することは、これを認めなければならない。
しかしながら、公務員の争議権が、その実質的効果の点において大きな制約を受け
ざるをえないからといつて、団体行動による影響力の行使を全く認める余地がない
とか、これを全面的に禁止し、これをあおる等のすべての行為に対して刑罰を科し
ても差しつかえないとの結論が当然に導かれるわけではない。公務員がその勤労条
  • 38 -件に関する正当な利益を主張し、かつ、これを守るために団結して意思表示をし、
団体交渉以外の団体行動によつて、立法による勤労条件の基準決定などに対して影
響力を行使することは、その方法が相当であり、かつ、一定の限界内にとどまるか
ぎり、刑罰の対象から除外されてしかるべきものである。勤労者にとつて団体行動
は、このような影響力行使の唯一ともいうべき手段であり、公務員の場合といえどもことは同様である。多数意見は、このような目的のもとにされる公務員の争議行
為が、立法や予算の決定などについての民主的政治過程を不当にゆがめる危険があ
ることを指摘するが、この議論は、公務員の争議行為を無制限に許した場合の弊害
については妥当するとしても、およそ一切の争議行為を禁止し、これをあおる等の
行為に対して刑罰を科することを正当とする理由となるものではない。換言すれば、
公務員が自己の要求を貫徹するために、国民生活に重大な影響を及ぼす虞れのある
ような争議行為を遂行し、かつ、これを継続するような場合には、多数意見の危倶
する弊害が生ずるかも知れないが、その程度に至らないものについては、そのよう
な弊害が生ずる虞れはなく、要は、その方法および程度の問題にすぎないのである。
更に、多数意見は、政府にいわゆる作業所閉鎖(ロツクアウト)による対抗手段が
ないことを挙げるが、このような対抗手段は、特殊の強力な争議行為に対するそれ
としてのみ意味を有するにすぎず、ロツクアウトが利用できないことは、勤労者側
におけるすべての争議行為を不当とする理由となるものではない。そればかりでな
く、立法や予算とは直接関係のない問題、とくに団体交渉の認められる事柄につい
て団体行動による影響力を行使する必要がある場合も想定されないわけではないの
である。このようにみてくると、多数意見の前記(2)の理由も、公務員の争議行
為を全面的に禁止し、これをあおる等のすべての行為に対して刑罰を科することを
正当づける理由となるものではないというほかはない。
三、現行法上、公務員の勤労条件については、人事院が内閣から独立した機関として設けられ、勧告その他の活動により比較的公正な立場から公務員の正当な利益を
守る、いわゆる代償措置に関する制度が設けられていることは、多数意見の指摘す
るとおりである。しかし、このような代償措置制度の存在は、国民生活全体の利益
の保障という見地から、最少限度公務員の労働基本権を制限する場合において、文
字どおりその代償として必要とされるものにすぎず、代償措置制度を設けさえすれ
ば労働基本権を制限することができるというわけのものではない。しかも、実際上、
人事院の存在およびその活動が、労働基本権の行使と同じ程度に、公務員の勤労条
件に関する正当な利益を保護する機能を常に果すものとはいいがたく、とくに、人
事院勧告は、政府または国会に対してなんら応諾義務を課するものではないから、
政府または国会に右勧告に応ずる措置をとらせるためには、法的強制以外の政治的
または社会的活動を必要とし、このような活動は、究極的には世論の支持、協力を
要するものであり、世論喚起のための唯一の効果的手段としての公務員による団体
行動の必要を全く否定することはできず、また、人事院の勧告の成立過程においても、勧告の内容に対する公務員の要求を表示するために同様の方法をとる場合のあ
りうることも否定できないのである。要するに、代償措置はあくまでも代償措置にすぎず、しかも現代の代償措置制度の運用については、状況に応じた公務員の団体
行動による監視、批判、要求、圧力などを必要とする場合もありうべく、単なる代
償措置制度の存在を理由として公務員の争議行為を全面的に禁止し、これをあおる
等の行為に対して刑罰を科することを正当化することは、とうてい、不可能である
といわざるをえない。


  • 最終更新:2023-03-23 15:40:57

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