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四、なお、多数意見は、その理由中において、前記大法廷の判決が公務員の争議行為禁止およびこれをあおる等の行為の処罰規定について施した限定解釈に対し、それが法律の明文を無視し、立法の趣旨にも反するものであり、また、限定の基準が不明確であつて刑罰法規における犯罪の構成要件の明確化による保障機能を失わせ、憲法三一条に違反する疑いがあると論難している。
 ところで、右の大法廷判決における国公法の規定の限定解釈に関する見解のうち、争議行為およびこれをあおる等の行為中、処罰の対象となるものとそうでないものとの区別の基準について、いわゆる違法性の強弱という表現を用いた部分が、犯罪の構成要件としてその内容、範囲につき明確を欠くという批判を受けたことは否定することができない。しかし、右の見解は、憲法二八条が労働基本権を保障していることにかんがみ、勤労者である公務員の争議行為とこれをあおる等の行為のうち、刑罰の対象とならないものを認めるべきであるとの基本的観点にたち、その基準として、争議行為については、職員団体の本来の目的を達成するために、暴力なども伴わず、不当に長期にわたる等国民生活に重大な支障を及ぼす虞れのないものにかぎつているのであつて、いわゆる違法性の強弱という表現は、以上の趣旨で用いられたものと解されるのである。また、これをあおる等の行為についても組合員の共同意思に基づく争議行為に関しその発案、計画、遂行の過程において、単にその一環として行なわれるにすぎないいわゆる通常随伴行為にかぎり、いずれも処罰の対象から除外すべきものとするにあり、したがつて、争議行為をあおる等の行為が異常な態様で行なわれた場合および組合員以外の第三者または組合員と第三者との共
謀によつて行なわれた場合は、通常随伴行為にあたらないものとしているのである。
 それゆえ、公務員の争議行為をあおる等の行為が右の基準に照らして処罰の対象となるかどうかは、事案ごとに具体的な事実関係に照らして判断されなければならないこととなるが、このことは、公共企業体職員または私企業労働者の争議行為が、たまたまそれ自体争議行為の禁止を内容としていない他の刑罰法規の構成要件事実に該当する場合、たとえば、いわゆるA事件(最高裁昭和三九年(あ)第二九六号同四一年一〇月二六日大法廷判決・刑集二〇巻八号九〇一頁)のような場合に、憲法二八条ないしは労働組合法一条二項の規定との関係から、労働組合の本来の目的を達成するためにした正当な行為であるかどうかにつき、事案ごとに具体的な事実関係に照らして判断されなければならないのと同様である。ただ、後者の関係では違法性阻却の問題であり、前者の関係では構成要件充足の問題であるという相違が生ずるにすぎない。
 およそ、ある法律における行為の制限、禁止規定がその文言上制限、禁止の内容において広範に過ぎ、それ自体憲法上保障された個人の基本的人権を不当に侵害する要素を含んでいる場合には、右基本的人権の保障は憲法の次元において処理すべきものであつて、刑法の次元における違法性阻却の理論によつて処理することは相当でなく、また、右基本的人権を侵害するような広範に過ぎる制限、禁止の法律といつても、常にその規定を全面的に憲法違反として無効としなければならないわけではなく、公務員の争議行為の禁止のように、右の基本的人権の侵害にあたる場合がむしろ例外で、原則としては、その大部分が合憲的な制限、禁止の範囲に属するようなものである場合には、当該規定自体を全面的に無効とすることなく、できるかぎり解釈によつて規定内容を合憲の範囲にとどめる方法(合憲的制限解釈)、またはこれが困難な場合には、具体的な場合における当該法規の適用を憲法に違反するものとして拒否する方法(適用違憲)によつてことを処理するのが妥当な処置というべきであり、この場合、立法による修正がされないかぎり、当該規定の適用が排除される範囲は判例の累積にまつこととなるわけであり、ことに後者の方法を採つた場合には、これに期待せざるをえない場合も少なくないと考えられるのである。
 以上の点に思いをいたすときは、前記のいわゆるD事件の判決が国公法一一〇条一項一七号の規定について前記のような趣旨で構成要件の限定解釈をしたからといつて、憲法三一条に違反する疑いがあるとしてこれを排斥するのは相当でなく、いわんや、この点を理由として、右国公法の規定が解釈上これになんらの限定を加えなくても憲法二八条に違反せず全面的に合憲であるとするようなことは、とうてい、許されるべきではない。第二 以上、公務員の争議権に関する多数意見の見解の不当であるゆえんを述べたが、ひるがえつて考えるに、本件の処理にあたり、多数意見が、何ゆえ、ことさらにいわゆるD事件大法廷判決の解釈と異なる憲法判断を展開しなければならないのか、その必要と納得のゆく理由を発見することができない。
 本件は、B労働組合による警職法改正反対闘争という政治目的に出た争議行為をあおることを企て、また、これをあおつた行為が国公法の前記規定違反の罪にあたるとして起訴された事件であり、このような争議行為が憲法二八条による争議権の保障の範囲に含まれないことは、岩田裁判官の意見のとおりである。それゆえ、この点につき判断を加えれば、本件の処理としては十分であり、あえて勤労条件の改善、向上を図るための争議行為禁止の可能性の問題にまで立ち入つて判断を加え、しかも、従前の最高裁判所の判例ないしは見解に変更を加える必要はなく、また、変更を加えるべきではないのである。
 憲法の解釈は、憲法によつて司法裁判所に与えられた重大な権限であり、その行使にはきわめて慎重であるべく、事案の処理上必要やむをえない場合に、しかも、必要の範囲にかぎつてその判断を示すという建前を堅持しなければならないことは、改めていうまでもないところである。ことに、最高裁判所が最終審としてさきに示した憲法解釈と異なる見解をとり、右の先例を変更して新しい解釈を示すにあたつては、その必要性および相当性について特段の吟味、検討と配慮が施されなければならない。けだし、憲法解釈の変更は、実質的には憲法自体の改正にも匹敵するものであるばかりでなく、最高裁判所の示す憲法解釈は、その性質上、その理由づけ自体がもつ説得力を通じて他の国家機関や国民一般の支持と承認を獲得することにより、はじめて権威ある判断としての拘束力と実効性をもちうるものであり、このような権威を保持し、憲法秩序の安定をはかるためには、憲法判例の変更は軽々にこれを行なうべきものではなく、その時機および方法について慎重を期し、その内容において真に説得力ある理由と根拠とを示す用意を必要とするからである。もと
より、法の解釈は、解釈者によつて見解がわかれうる性質のものであり、憲法解釈においてはとくにしかりであつて、このような場合、終極的決定は多数者の見解によることとならざるをえない。しかし、いつたん公権的解釈として示されたものの
変更については、最高裁判所のあり方としては、その前に変更の要否ないしは適否について特段の吟味、検討を施すべきものであり、ことに、僅少差の多数によつてこのような変更を行なうことは、運用上極力避けるべきである。最高裁判所におい
て、かつて、大法廷の判例を変更するについては特別多数決による旨の規則改正案
を一般規則制定諮問委員会に諮問したところ、裁判官の英知と良識による運用に委
ねるのが適当である、との多数委員の意見により、改正の実現をみるに至らなかつたことがあることは、当裁判所に顕著な事実であるが、この経緯は、右に述べたことを裏づける一資料というべきものである。
 ところで、いわゆるD事件の当裁判所大法廷判決中の、憲法二八条が労働基本権を保障していることにかんがみ公務員の争議行為とこれをあおる等の行為のうち正当なものは刑事制裁の対象とならないものである、という基本的見解は、いわゆるA事件の当裁判所判決およびいわゆるE事件の当裁判所判決(昭和四一年(あ)第四〇一号同四四年四月二日大法廷判決・刑集二三巻五号三〇五頁)の線にそい、十分な審議を尽くし熟慮を重ねたうえでされたものであることは、右判決を通読すれば明らかなところであり、その見解は、その後その大綱において下級裁判所も従うところとなり、一般国民の間にも漸次定着しつつあるものと認められるのである。
ところが、本件において、多数意見は、さきに指摘したように、事案の処理自体の関係では右見解の当否に触れるべきでなく、かつ、その必要もないにもかかわらず、
あえてこれを変更しているのである。しかも、多数意見の理由については、さきの大法廷判決における少数意見の理論に格別つけ加えるもののないことは前記のとお
りであり、また、右判決の見解を変更する真にやむをえないゆえんに至つては、なんら合理的な説明が示されておらず、また、客観的にもこれを発見するに苦しまざるをえないのである。以上の経過に加えて、本件のように、僅少差の多数によつてさきの憲法解釈を変更することは、最高裁判所の憲法判断の安定に疑念を抱かせ、ひいてはその権威と指導性を低からしめる慮れがあるという批判を受けるに至ることも考慮しなければならないのである。
 以上、ことは、憲法の解釈、判断の変更について最高裁判所のとるべき態度ないしあり方の根本問題に触れるものであるから、とくに指摘せざるをえない。
 裁判官色川幸太郎の反対意見は、次のとおりである。
第一 争議行為の禁止と刑罰
一、多数意見は、要するに、非現業国家公務員(以下公務員という。)については一切の争議行為が禁止されるのであり、これをあおる等の行為をする者は、何人であつても、刑事制裁を科せられるものであるとし、その旨を規定した国家公務員法(昭和四〇年法律第六九号による改正前のもの、以下国公法という。)一一〇条一項一七号は、これに何らの限定解釈を施さなくとも合憲であるというのであるが、
私はこれに決定的に反対である。その理由としては、当裁判所大法廷のE事件判決(昭和四一年(あ)第四〇一号同四四年四月二日大法廷判決・刑集二三巻五号三〇
五頁)及びD事件判決(昭和四一年(あ)第一一二九号同四四年四月二日大法廷判
決・刑集二三巻五号六八五頁)(但しこれに付した私の少数意見と抵触する部分を除く。)にあらわれた基本的な見解を引用し、これをもつて私の意見とする。なお、
多数意見に含まれる若干の論点について、私のいだいた疑問を開陳し、反対理由の補足としたい。
二、多数意見は、公務員の争議行為が何故に禁止されなければならないか、という理由については、縷縷、言葉をつくして説示しているのであるが(私もその所説については必ずしも全面的に反対するわけではない。)、要は、公務員には争議権を
認めるべきではないということだけを力説しているにすぎない。しかるに多数意見
は、一転ただちに、科罰の是認へと飛躍し、見るべき論拠をほとんど示すことなく、
およそ、争議行為の禁止に違反した場合、これに懲役刑を含む刑罰をもつて臨むこ
とを、争議権制限に伴う当然の帰結とするもののごとくであつて、私としては到底納得できないのである。
 思うに、争議行為を制限しまたは禁止する立法例は現に数多く存在する。ひとり
公務員の場合だけではない。しかし禁止違反に対し、ただちに、懲役を含む刑罰を
加えるべきことが規定されているのは、他に例を見ないところである。公労法一七
条は、公共企業体の職員や郵政その他国営企業の現業公務員及びそれらの組合の争
議行為を禁止し、このような禁止された行為を共謀し、そそのかし若しくはあおる
等の行為は、してはならないと定めており、その点で国公法九八条と趣旨を同じくしているのであるが、その違反者は、解雇処分を受けることがあるにすぎず、禁止の裏付けとなる罰則は全く存在しないのであるから刑罰に処せられることがない(
電電公社その他各企業体にはそれぞれの事業法があり、そのなかには不当に業務を停廃したことに対する処罰規定もおかれているが、これは個別的な秩序違反行為を対象としたものであつて、争議行為に適用されるものではないと解する。)。公共企業体の職員や国営企業の現業公務員に対して争議行為を禁止するのは国民の福祉
を擁護するためであるから、国公法が公務員に対し争議行為を禁止する趣旨との間
に、格段の径庭があるわけではない。それであるから、公務員の争議権が制約され
なければならない理由を単に積み重ねただけでは、科罰の合理性を 論証したこと
にはなりえないであろう。
三、もつとも多数意見がその点に全くふれていないわけでもない。いま、多数意見のいうところから理由づけと見るべきものを求めると(1)公務員の争議行為は広
く国民全体の共同利益に重大な障碍をもたらす慮れがあること、そして(2)あお
り等の行為をした者はかかる違法な争議行為の原動力または支柱であること、の二
点であろうか。しかし、いずれを取りあげても、科罰の合理性につき人をして首肯せしめるには、ほど遠いもののあることを感ぜざるをえない。
 刑罰を必要とする第一の、というよりはむしろ唯一の、理由は、争議行為が国民全体の共同利益に重大な障碍をもたらす虞れがあるから、というところに帰着する。しかし、一口に公務員といつても、国策の策定や遂行に任ずる者もあれば、上司の
指揮下で補助的な作業にあたつたり、あるいは単純な労務に従事するにすぎない者
もあり、その業務内容や職種は千差万別である。のみならず、争議行為のために多かれ少なかれ公務の停廃を見るとしても、争議行為の規模や態様には幾多の段階や
ニユアンスの差異があるのであつて、国民全体の生活に重大な障碍をもたらすか、またはその虞れがあるような争議行為は、過去の実績に徴しても、極めて異例であ
るといつて差支えない。国民生活上何らエツセンシアル(これについては後にふれ
る。)でない公務が、ごく小範囲の職場において、しかも長からざる期間、争議行為によつて停廃を見たとしても(公務員労働関係における大半の紛争状態はまさにこれである。)、国民は多少の不便不利益を蒙るだけである。もともと、労働組合の争議行為は使用者に打撃を加えて己れの主張を貫徹しようとするものであるが、企業は社会から孤立した存在ではないから、そこにおける業務の阻害は第三者にも影響を与えないわけにはいかない。その企業が運輸とか医療とかの公益事業であると、業務の停廃による直接の被害者はむしろ一般公衆である。かくのごとく、第三
者も争議行為によつて迷惑を蒙ることを免れないが、それが故に争議行為を全く禁止し、または争議行為によつて第三者の受けた損害を当該労働組合などにすべて負
担せしめては憲法二八条の趣旨は全うされないことになるであろう。その意味で第三者はある程度の受忍を余儀なくされるのであり、公務員の場合でも本質的には変
るところがないというべきである。
 多数意見の立論の基礎は、国民全体の共同生活に対する重大な障碍を与えるとい
う点にあるのであるから、前述のごとき、国民に対し多少の不便をかけるにすぎない軽微な争議行為については、これに刑罰をもつて臨まないとするのが、論理上当
然の筋合ではないかと思うのであるが、何故に多数意見は、事の軽重や、国民生活
に対する影響の深浅などをすべて捨象度外視して、公務員による一切の争議行為に対し、刑罰を科することを無条件に是認しようとするのであろうか。限定解釈をし
てはじめて憲法上科罰が許されると考えている私の到底同調できないところである。
四、つぎに多数意見は、「公務員の争議行為の禁止は、憲法に違反することはない
のであるから、」「この禁止を侵す違法な争議行為をあおる等の行為をする者」は、
原動力を与える者としての重い責任が問われて然るべきであり、「違法な争議行為の防遏」のためにその者に刑事制裁を科することには「十分の合理性がある」とす
る。しかしながら争議行為の禁止が違憲でないからといつて、禁止違反に対し刑罰
をもつて臨むことまでも、憲法上、当然無条件に認められるということにはならな
い。憲法は争議権の保障を大原則として宣言しており、公務員もその大部分はかつ
てその保障下にあつたのである。その後にいたり、国民の福祉との権衡上、やむをえざる例外として制約されるにいたつたものであると解せられるから(多数意見も
この点は同じ見解をとるものであろう。)、禁止違反に対して科せらるべき不利益
の限度なり形態なりは、憲法二八条の原点にもう一度立ち帰り、慎重の上にも慎重
に策定されなければならないのである。争議行為禁止が違憲でないが故に禁止違反
にはいかなる刑罰を科しても差支えない、という説をとるとすれば、これは論理的
にも無理というものではあるまいか。多数意見の立論は、公務員の争議行為を禁止
することこそ憲法の要請であり、至上命令だというような途方もない前提(多数意見は憲法一五条を論じて公務員の地位の特殊性を説くが、さすがにかかる議論にま
では発展していない。)でもとらないかぎり、破綻せざるをえまい。
五、さらに、多数意見は、あおり等の行為を罰することに十分の合理性があるとい
う。しかし、いうところの合理性とは「争議行為の防遏を図るため」の合理性、す
なわち、最少の労力をもつて最大の効果をえようとする経済原則としての合理性に
近似したもののように見受けられる。いいかえれば、憲法二八条の原則に対する真
にやむをえない例外である科罰が、いかなる合理的な根拠に基づいて容認されるか、
という意味での合理性ではなく、それとは全く縁もゆかりもない刑事政策ないしは
治安対策上の合理性をいうもののごとくである。
 わが国にはかつて、争議行為の誘惑、煽動を取り締る治安警察法一七条という規
定があり、これを活用した警察が、明治、大正にわたり、あらゆる争議行為の防遏
に美事に功を奏したことがある。当時と異なり争議権の保障のある今日、よもや立
法者がその故智先蹤にならつたわけではあるまいが、禁止に背いた違法な争議行為に対処するにあたり、参加者全員を検挙し断罪するのは煩に堪えないばかりでなく、
単なる参加者よりも社会的責任の重いいわば巨悪を罰すれば、付和随行の者どもは
手を加えるにいたらずして争議行為を断念するであろうという計算があつたのかも
知れない。もしそうだとすれば、争議対策としてはなるほど合理的ではあろう。しかしこの考え方は、憲法の次元を離れた、憲法的視野の外にある、便宜的、政策的
なもので、もとより採ることは許されない。
六、多数意見は、あおり等の行為に出た者は、争議行為の原動力をなす者であるか
ら、「単なる争議行為参加者にくらべて社会的責任が重く」、したがつてその責任
を問われても当然だという。これを裏返していえば、単なる争議行為参加者にも、刑事責任追及の根拠となる社会的責任がないわけではない、ただ原動力を与えた者
に比べると軽いだけである、とする主張が底流をなしている。多数意見も、別の個所で、違法な「争議行為に参加したにすぎない職員は刑罰を科せられることなく」
と述べてはいるが、それは現行法のあり方を説明したにとどまり、憲法上そうでな
ければいけないのだという趣旨はどこからも窺うことができない。いまもし現行法
が改正されて、単なる争議行為参加者をもことごとく処罰するということになつた
と仮定した場合、多数意見の立場からは、これをどう受けとめるであろうか。恐ら
くは、かくのごとき改正も国会みずからが自由にきめうるところであるとし、その
規定を適用することに何の躊躇をも示さないことになるのではあるまいか。
七、上述のように、単なる争議行為参加者は処罰されることがないのであるが、こ
れは区区たる立法政策に出たものと解すべきではない。もしそれをしも処罰すると
なれば、ただちに違憲の問題を生ずるであろう。いわゆる争議行為参加者不処罰の
原則は憲法二八条との関連において確立されているのである。あおり等の行為の意義も、右の基本的な立場に立脚してはじめて正しく理解することができると考える。
 これに対し多数意見はもとより見解を異にするわけであるが、それにしても、単なる争議行為参加者を処罰するものでないことは、多数意見の容認するところであ
る。しかし、あおり等に関する多数意見の解釈はあまりにも広く(多数意見のよう
に、憲法二八条に立脚せず、それとの関係を無視ないし閑却するかぎり、恣意的な
解釈で満足するのであれば格別、厳密な態度での合理的な限定解釈を施すことはで
きる筈がないのである。)もしそれによるとすれば、後に述べるように、単なる争
議行為参加者も処罰の脅威を感ぜざるをえなくなるのであつて、多数意見の立論の
根拠たる原動力論、すなわち違法な争議行為の原動力をなす者だけを処罰するのだ
という理論も実は看板だけにしかすぎないことになりおわるのである(多数意見は、
わざわざカツコ書きにおいて、単なる機械的労務を提供したにすぎない者、または
これに類する者はあおりその他の行為者には含まれないとことわつているのである
が、これは争議行為が組合員自身によつて形成され遂行されるものであるという現
  • 50 -実を無視した空論なのである。およそ争議行為は、組合員すべてが自己の判断に基
づきそれぞれが主体的な立場に立つて参加し行動するのが通例であつて、例えば、
末端組合員が普通担当することになるであろうビラの配布、貼付、指令の伝達などにしても、選挙運動の際の日雇労務者などに見られる単なる機械的な労務の提供とはその質を異にする。)。
 国公法一一〇条一項一七号によつて罪となる行為には、以上の他に、「そそのかし」と「共謀」とがあるが、これらの行為類型のどれひとつ取りあげても、もし多数意見にならつて文字通りに解釈するとすれば、自由意思に基づいて争議行為に参
加し、共闘するところのあつた組合員は、たとえ平組合員であろうとも刑事責任を
追及されかねないことになる。なぜならば、平組合員と雖も、いわゆる総けつ起大
会に出席し、執行部のスト提案に熱烈な声援を送つて組合員の闘志を鼓舞したとす
れば「あおり」にちがいないし、スト宣言文書やアジビラを積極的に職場その他に
貼つたり、撒いたりしたときは「そそのかし」に該当しないとはいいきれない。そ
ればかりではない。組合の争議行為意思の形成に進んで参加し、また、争議手段に
ついての討議に加わる(これは組合による闘争の場合必ず通過する過程である。)
 ことが、果して「共謀」でないといいうるかどうかさえ疑問になりはしないか。
 もしかかる設例が必ずしも想定できないわけでないとすれば(争議の実情に鑑み
ると決してありえないことではない。)、指導的立場において原動力たる役割を演
じた組合の中枢部だけでなく、ある程度積極的ではあれ、結局は単なる争議参加者
にしかすぎなかつた者を、徹底的に検挙することすら易易たる業となるのである。
もし仮にそういう事態が生じたとすれば、これは原動力理論を主張する論者にとつ
てさえ、恐らく不本意ではあるにちがいない。多数意見も「法は公務員の労働基本
権を尊重しこれに対する制約、とくに刑罰の対象とすることを最小限度にとどめよ
うとしている」と説いているのであるから。
  • 51 - もちろん、普通の紛争に見られる程度の事情においては、かかる不合理な結果を
来たすような処理はなされないであろうが、法律による何の歯止めもなく、あげて
そのことを捜査機関の良識ある裁量に俟つのみとあつては、多数意見の強調する原
動力理論も宙に浮く結果となるであろう。
八、多数意見は、ILO九八号条約をひいて、それが公務員に適用されないことを
あげ、また、ILO結社の自由委員会の報告中に、「大多数の国において」公務員
がストライキを禁止されている旨の記述があるとして、当該個所を引用し、公務員
の争議行為に対する制約は、国際的にも是認されるものだと主張する。
 なるほど九八号条約の第六条には、多数意見の引用にかかるような定めのあるこ
とは事実であるが、一九七一年に発足したILOの公務員合同委員会(これは日本
を含む一六の政府及びそれぞれの国の労働者側からなる二者構成の公的な専門委員
会である。)の第一回会議(同年三月二二日ないし四月二日開催)におけるジエン
クスILO事務局長の開会演説は、「現在多くの国において、公務員の労働関係に
変化が生じており、勤務条件は労使の話合いを通じて決定される傾向がある」こと
を指摘しており、また、右委員会における討議の結果採決された決議第一号は「一九四九年の団結権及び団体交渉権についての原則の適用に関する条約(第九八号)が、「公務員の地位を取り扱うものではない」と規定しているにもかかわら
ず、すでに若干の国においては、公務員は同条約の規定の全部又は一部の恩恵を受
けているということを認識し
 公務員は、九八号条約の定めるところに従い、労働組合活動の自由を侵害するい
かなる行為に対しても適切に保護されるべきであることを考慮し」
と述べているのである(なお同条約第六条の英文テキストには、アドミニストレー
シヨンに従事するパブリツクサーバンツとある。これは日本訳にいう「公務員」よ
りもはるかに狭いものがありはしないか。現にILOの条約勧告専門委員会は、一九六七年に、公務員の概念は各国の法律制度の相違に応じてある程度異なるにして
も、公権力の機関として行動しない公務員を含まないとの趣旨の報告を提出してい
る。本件では直接この点を問題にするわけではないが、多数意見のいうところが拡
張して解釈される虞れもあるので指摘しておく次第である。)。
 さらに、公務員のストライキを禁止している国が、果して世界の大多数を占めて
いるかどうか、またそうだとしても、そのことの示す意味については問題があると
考える。なるほど、数だけからいえば、いまだ少なからざる国が公務員のスト禁止
法を存しているが、しかし、その大部分は開発途上国か、そうでなくとも農業国な
のである。先進工業国としては、僅かにわが国のほか、アメリカ、オランダ、スイ
スをあげうるにすぎない。しかも、以前から公務員に対するしめ付けのきわめて厳
しいアメリカにおいてさえ、近時いくつかの州において禁止を解く立法がつぎつぎ
に制定されつつあるのである。
 もつとも問題の核心は、実は、その点にあるわけではない。本件においてわれわ
れが特に関心をもたざるをえないのは、禁止違反に対する刑罰規定の有無なのであ
る。この種の規定が、殊に先進国において、果してどれだけあるのか、多数意見は
何らふれるところがない。いうところは、単に禁止立法が多くの国に存在している
としているだけである。本件をいやしくも国際的視野に立つて検討するのであれば、
刑罰を裏付けとする公務員のスト禁止立法の状況にこそ目をくばるべきであろう。
九、わが国はいまだ批准していないけれども、人も知るとおりILO一〇五号条約
は、同盟罷業に参加したことに対する制裁としての強制労働を、何らの留保をも加
えることなく、一般的に禁止している。もつとも、ILO五二回総会(一九六八年)
に提出された専門委員会の報告は、「右条約案を審議した総会委員会において、一定の事情の下ならば違法な同盟罷業に参加したことに対して刑務所労働を含む刑罰
を科することができるという合意ができたという事実を考慮することが適当」だと
  • 53 -述べているのであるが、この見解には概ね異論がないらしい。それ故、仮に右条約
を批准しても(わが国の政府が批准を躊躇しているのはその点を懸念するためでも
あろうか。)、国公法一一〇条一項一七号なども右条約には抵触しないとする見解
もあるようである。しかし、前示専門委員会が刑罰を容認するのは、「エツセンシ
ヤル」すなわち「必要不可欠な役務」についてのみなのである。そして、「必要不
可欠」とは、同委員会によれば、「その中断が住民の全部又は一部の存在又は福祉を危うくするような」場合をさしていることを忘れてはならない。
 のみならず、結社の自由委員会は、一二号事件において、アルゼンチンでの、スト禁止違反に対する刑事制裁規定につき「委員会は、公安にかんする(アルゼンチンの)法規に含まれている、ストライキにたいし、これらの規定を適用する必要性をこれまで見出せなかつた旨の(アルゼンチンの)政府陳述に留意するとともに、これらの規定を、職業上の利益を増進
擁護するため、労働組合の指導者が自己の通常の任務を遂行した場合に、これに対しては適用することはできないような態度で、上記諸規定を改正することが望まし
い旨、(アルゼンチン)政府の注意を喚起するよう、理事会に勧告する。」と述べ
ている。さらに、五五号事件において(これはギリシヤに刑法上のストライキ処罰
規定があることを問題にした申立事件である。)、労働者側の申立を却下はしてい
るのであるが、その理由は、右の刑法の規定が今まで実際には適用されたことがな
かつたことに「留意」したからであつて、スト禁止違反に対し刑罰を科することを
たやすくは是認しないという態度を示しているのである。
 要するにILOの一般的傾向としては、公務員のスト禁止違反に対し刑罰特に懲
役を科することには甚だ消極的なのである。
 飜つて、各先進国の現行法制を見ると、アメリカにおいてこそ、連邦公務員のス
ト禁止違反に対し一〇〇〇ドル以下の罰金又は一年と一日以下の拘禁もしくはこれ
  • 54 -を併科するという罰則があるけれども、イギリス、ドイツ及びフランスでは、警察
官などについては格別、普通の公務員については、ストライキを禁止する規定がそ
もそもないのであるから、もとより刑罰の脅威が存在するわけではない。
 以上を通観するならば、世界的な潮流は、多数意見の説くところとおよそ方向を
異にするものということができるであろう。多数意見は、自らが「国際的視野」に
立つているというのであるが、そうであるとしても、わずかに楯の一面を見たにす
ぎないのではあるまいか。
第二 本件の団体行動は「争議行為」ではない
一、原判決の認定するところによると、被告人らは、昭和三三年一〇月、内閣が警
察官職務執行法の一部を改正する法律案を衆議院に提出したとき、これに反対する
ために(一)時間内職場大会を開催すべき旨の指令を全国の支部、分会に発出した
ほか(二)農林省庁舎前において勤務時間内二時間の職場集会を計画、同省職員に
参加方を慫慂し、かくして争議行為をあおつたというのである。そうである以上、
この行動は、国会に労働組合の意思を反映せしめ、立法過程において前記改正の動
きを阻止しようとしたのであるから、政治的目的に出たものというべく、そして、
集会実施中は、時間は長くないにしても、管理者の意思を排除し、一斉に勤務を放
棄するというのであるから、世にいう政治ストにあたるわけである。
 しかし、政治ストというのは俗称にすぎず、純然たる政治的目的のための労働組
合の統一行動は、たとえそのために業務の阻害を来たしても、労働法上の争議行為
たるストライキとは異質なものなのである。例えば、診療報酬の改訂を要求するた
めの医師会のスト(一斉休診)や、入浴料金据置反対のための浴場業者のストなど
は、いかなる意味でも争議行為ではないのであるが、いわゆる政治ストも本質的に
はこれらと同様であり、法律改正阻止のための、すなわち国会の審議に影響を及ぼ
し、かつ政府(この場合は統治機関たる政府であつて、使用者たる政府ではない。)
  • 55 -に反省を促すための「スト」は、労働法上の争議行為ではないのである。したがつ
て、労働組合の行動ではあるが、争議権の行使ではなく、憲法二八条の関知せざる
ところというべきである。
 もとより、憲法二八条の保障を受けないからといつて、それだけの理由で、右の
「スト」がただちに違法になるものではない。このことは、あえて憲法二一条を引
合に出すまでもなく、明らかであろう。大体、労働組合には政治行動をなすについ
て労働組合なるが故の特別の保障がないだけであつて、一般に組合に対し政治行動
が禁止されていると解すべき何らの理由もないからである。
 もつとも、国家公務員については、私企業の労働者の場合と異なり、政治的行為
制限の規定(国公法一〇二条)があるが、それをうけて政治的行為の細かい内容を
定めた人事院規則には憲法上疑義なしとしないのであつて、右の規定だけに依拠し
て一切の政治行動が禁圧されているとするのは相当ではない。それにまた、公務員
労働組合の法律改正反対運動が議会制民主主義に反するときめつけることにも問題
がある(多数意見は、公務員の勤務条件は国会の制定した法律、予算によつて定め
られるのであるから、勤務条件について公務員が争議行為を行なうことは議会制民
主主義に反するという。医師の団体や農業団体が、立法の促進や法律改正の反対な
どを目的として、国会や政府に強力な圧力をかけていることは日常われわれが見聞
するところである。歓迎すべき風潮ではないとしても、当事者としては生活権擁護
上やむにやまれずしてとる行動であるかも知れず、また一方、これを禁止する法規
があるわけではないから、いうまでもなく合法的行為なのである。労働組合として
も別異ではない。労働組合は、本来、使用者との間において、労働条件の維持改善
を図ることを主たる目的として結成され、発達してきたのであるが、今日の高度経
済成長の時代においては、使用者との角逐に全力をそそぐ必要が次第に少なくなり、
さらに広い視野に立つての物心両面における生活の向上に努力する傾向が顕著とな
  • 56 -つた。労働組合のこの機能の変化は、労働者の生活と意識の変化の反映であり、ア
メリカ型のビズネスユニオンにおいてさえ、単なる賃上げ組合の域にとどまること
はできないのである。したがつて、労働組合が、企業の内部にのみ局せきすること
なく、進んで、行政や立法に自らの意思を反映せしめようとするのはまさに時代の
要請であり、まことに当然のことなのである。労働組合が国会の審議に影響力を及
ぼそうとすること自体は、越軌な行動に出るものでないかぎり、国会の機能に直接、
何の障碍をも与えるものではないから、非難に値するわけではあるまい。むしろ考
えようによれば、国の最高機関として民衆と隔絶した高きにある国会に、民意のあ
るところを知らしめることは、議会制をして真の民主主義に近づかしめる方法でも
あろう。)。労働組合の政治的行動を一概に否定し排撃することは、労働組合が現
に営んでいる社会的役割ないし活動を無視するものというべきである。
 もとよりそれだからといつて、公務員労働組合の政治的行動がすべて適法だとい
うつもりはない。この点は別個に考察されなければならない。公務員労働組合によ
つてなされた本件におけるような態様の政治的行動がいかなる法律的評価を受ける
ものであるかは、憲法一五条及び二一条と国家公務員法との比較考量によつてきめ
られるべきことである。しかし、国家公務員に対する政治活動の規制とは全く関係
のない訴因、罰条をもつて起訴されている本件においては、これ以上、立ち入つた
考察をする必要はないと考える。
二、いわゆる政治ストが労働法上の争議行為ではないというためには、労働法上、
争議行為とは何かということを解明することが必要であるし、国公法九八条五項で
禁止されている争議行為(五項前段は全体として争議行為を禁止しているものと解
する。「政府の活動能率を低下させる怠業的行為」も、広義における争議行為の一
部である。これを争議行為と別異なものであるとする説もあるけれども、条文上か
くのごときまぎらわしい表現になつているのは、占領下における立法過程に通有の、
  • 57 -占領軍が作成し日本政府に押しつけた粗雑なドラフトに屈従した結果と見るべく、
要するに立法上のミスであつて、後述する判決中で私が詳述した沿革に徴するとき
は、上述したところ以外の合理的解釈は考えられないのである。)が、労働法上争
議行為とよばれるものと同じであることを論証しなければならないのであるが、こ
の問題については、私がかつて詳しく論じたところ(仙台全司法事件大法廷判決中
の私の意見刑集二三巻五号七一五頁以下)であるので、これを引用する。
 結局、原判決には、法律の解釈を誤つた違法があり破棄を免れないというのが私
の結論である。
第三 判例変更の問題について
 最後に、一言付加したいことがある。多数意見は、仙台全司法事件についての当
裁判所の判例は変更すべきものであるとしたのであるが、法律上の見解の当否はし
ばらく措き、何よりもまず、憲法判例の変更についての基本的な姿勢において、私
は、多数意見に、甚だあきたらざるものあるを感ずるのである。この点に関しては、本判決に、裁判官田中二郎、同大隅健一郎、同関根小郷、同小川信雄、同坂本吉勝の剴切な意見が付せられており、その所説には私もことごとく賛成であるので、その意見に同調し、私自身の見解の表明に代えることにする。
 検察官冨田正典、同山室章、同蒲原大輔 公判出席
  昭和四八年四月二五日
     最高裁判所大法廷
         裁判長裁判官    石   田   和   外
            裁判官    大   隅   健 一 郎
            裁判官    村   上   朝   一
            裁判官    関   根   小   郷
            裁判官    藤   林   益   三
  • 58 -            裁判官    岡   原   昌   男
            裁判官    小   川   信   雄
            裁判官    下   田   武   三
            裁判官    岸       盛   一
            裁判官    天   野   武   一
            裁判官    坂   本   吉   勝
 裁判官田中二郎、同岩田誠、同下村三郎、同色川幸太郎は、退官のため署名押印
することができない。
         裁判長裁判官    石   田   和   外


  • 最終更新:2017-03-06 15:32:51

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